天と無智
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教育履修問題と耐震偽装問題や鳥インフルエンザとかに見られる共通点
もっとも問題化した事例は御多聞に漏れず同じような傾向を指すようで、つまるところ学習能力を知らないということを露呈していると言えるとともに、同じような事例に対する処方箋を講じる術が活かされないのか活かす方法を知らないのかはわからないが、未来見ではない小生にも大体にして目に見えるものがある。
(ひとつには縦割り行政の弊害とも取れるが…なにをいまさら。)


今回の履修漏れも結局悪者探しに終始している所にあり、原因を探ろうという姿が見て取れないという点がひとつ。
政府サイドはさも責任は別のところだといわんばかりの態度が目立つ点。
当初救済には難色をしめした政府つか文科相の態度は、ゼロ(ゼロトレランス)対策の一環なのかなーという意味で、毅然とした文科省の態度に野次馬根性で冷ややかに見ていたけど、結局は救済処置に走るところはある意味で想定内。

どうもそこに政治的なきな臭ささえ漂う 今回の履修漏れ問題。もちろんいじめを含めた部分。

基本的に社会的に問題化した問題は、政治にとっては絶好のネタになりうる。
ようするに問題を小さい内に摘み取るよりは大きな社会問題となるほうが、改革!という言葉を投げかけるにはまさにうってつけなのだ。

「問題になった! だから改革を続行していかなければならない!」
「改革の手を止めてはならない!」

よく聞くスローガンだ。

当然といえば当然のことで、問題を解決するには改革するしかなく、手を止めていても解決には至らないが、問題なのは問題が小さな芽の内ではなく大きな木になってから行う傾向にあるということだ。
この辺は政府与党の得意とするところだろう。
小さな芽を木に…っていうあたりは。


極端な話、政治にとって改革するものがなくなればその存在意義そのものが危ぶまれる。
極論を言うと、そういう状況になってはじめて効率的かつ小さな政府の実現とも取れる。

コトワリの念を持つ人間やカリスマのある人徳のある人間はいつの時代にも必要だ。
それ自体は無意味ではなく絶対に必要とするところ。たとえ、改革というものがなくともなくてはならない存在である。


教育基本法とやらの議論が活発だが、正直なところ小生にはいまいちピンと来ない改革議論だと思う。ほかに優先的にするべき改革はあるじゃないかっていう気がする。
正直、教育基本法とやらはわからない。
何のための教育か?
社会や地球規模での教育なのか。
それとも自己のための教育なのか。
簡単そうでむずかしい問題だが。
そこんところがいまいちはっきりしない。


というのが実はキモで、関心の度合いを高めるために故意に問題を露呈させたという風な見方もしている。
少なくとも いじめ 履修不足 教育の意味 という事柄は充分すぎるほど、世論に訴えかけるにはインパクト大である。
それをない交ぜにしての教育基本法であること。

教育基本法の隠れ蓑として利用されて曖昧な議論のまま教育法が成立して終わるのか、きちんと今回の事柄を踏まえて改善されるのかは小生にはわかりません。


最初に題目として挙げた問題とはかけ離れたけど、問題が問題化して誰かが自殺するまでの経過具合はデジャブを見ているようで怖い。
鳥インフルエンザの時もそうだし、たすか耐震偽装のときもそうだ。
今回でもどこかの高校の校長が犠牲になったそうだし。

農林水産
国土交通
文部科学

何かあった後、事後的に政府与党が打診して救済処置を講じ、場合によっては改革の争点とし、場合によってはお蔵入りするケースは決して珍しくない。

意図しようとしまいと、対立的構図(野党等)を作り出すのも計算の内で、長い間の馴れ合いから来る極めて高度(珍妙?)な駆け引きでもって国民を巻き込む政治ぐるみの隠蔽工作という見方もできてしまう今の日本はいとおかし。
(故意に対立軸を作るというのはある意味で危険な駆け引きであり、それは賞賛に値するところではあるが…単なるエゴというかわがままというか。正直どうでも良い問題の方が多い気がする。)


政治の世界にとっては、事前の解決策を講じるよりは事後的に解決策を講じる方が改革の壮大感やインパクトや存在感で圧倒的に上なのだろう。

年金・社会保障問題、ニート・フリーター・派遣雇用の問題などなどつまるところ格差社会におけるさまざまな問題。
これらはもっと大きな木になるまでお預けのようです。


(本来ならば、事の重要性を考えるならば雇用が先に来るでしょう。
理由はすべての根幹である支える側・引っ張っていく側である労働に対する安定したシステムの構築の上ですべてが成り立つものである。
要するに労働環境の低下はいわずと知れた社会保障だけではなく日本という国の信頼低下という事態すらも招きます。
社会保障や年金を考える上では前提条件として雇用・労働にメスを入れなくてはなりません。
しかし、おそらくは年金・社会保障が前頭に立っての議論が予想されます。理由は圧倒的多数の年配層の支持取り込みを狙っての事です。
まあ、年配といってもどこまでを指すかは不明瞭ですが、年金や社会保障に敏感な人間全員が該当するかな。何はなくとも今の政権を維持する事を目的とした政党の考えとしてはあながち間違いとはいえないでしょうよ。
ニート・フリーター問題は場合によっては外国人労働者でオールOK的な目論見があるでしょう。そこはアメリ米追従ということで。それ以外は自助努力不足ですとすれば万事OK。政府見解より)という風に見ています。考えすぎかしら?
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懲戒の意味について
懲らしめる・戒める。

そこに当事者自身に反省や成長に通ずる何かが感じ取られなければ懲戒の意味はすごく薄い。当然、犯罪に対する抑止効果を含めてである。


一般的に馴染み深い所で懲戒というと、懲戒解雇や懲戒免職がある。
遺憾という言葉と同じぐらいに毎日のように耳にする言葉であろう。
議員などはその言葉と同等の議員辞職がある。

本来の意味ではないが一般的な解釈でいくと、何かしらの不祥事から来る信頼失墜に対する防衛策のひとつとして用いることが多い。
辞職を促すということでは議員に目立つが、それとて上層部の命令に違いはない。(そうでないなら辞めない。)
当事者の意思に関わらずとりあえず懲戒という名目で処分するには、トップからすればこれほど明確かつ簡単な正当性を堅持できる処分はない。

たまに議員や市長なんかは、「国民の為に~誠心誠意」という理由から辞職しないケースがある。(俺には「給料はウマーなので辞めません」という風にしか聞こえないけど)
減給1/56535とかって自分で決めちゃうような人がいるがはっきりいって虚しい決意だと思う。ひどく公平性に欠ける。


懲戒された人間がその後、どうしているかという情報はほとんど入ってこない。
役人ならば天下りするケースもあろう。(例:JR)
何かしらの不祥事で当事者の名前が伏せられていた場合は、その後の社会復帰も造作もない可能性は高い。
名前が公表された場合のケースはどうなるのかとんと想像できない。
どんな不祥事を起こそうが前職の職域によっては企業側が採用したがるケースはあるだろうが、そうでない場合はどうなのだろうか?
中には前職のノウハウと知恵でもって同業に就くことも可能ではあろうが。
もしくはぜんぜん違う職業に向かうことになるのだろうか。

それらとて以前の不祥事の反省を踏まえて前に進めるのならば悪いことではないが…。
それはあくまで当事者の問題であって、社会的な意味での制裁としてはどうなのだろうか甚だ疑問である。
(今の日本における懲戒の意味は職を失うというだけのこと。
このご時世、職を失うのは結構痛手ではあるが、時勢が時勢なので派遣やフリーターが増えているので大して変わらない(何が?))



例えば、ねんきん事業機構が、あることで職員達が不正をして不祥事を起こした。
そこでこれらの職員を処分(懲戒解雇)しました。と発表し禊は済んだ。
「これからは国民の為に~粉骨砕身」ウンヌンカンヌンなのでよろしくメカドックと申されて納得がいくか否かは人それぞれでしょう。

問題は組織ぐるみの有無に関わらず、単純な指導監督不行き届きゆえから来る問題で、問題を起こした職員のみを断罪するのでは単にトカゲのしっぽでしかなく、成長も期待できない。
何より社会的正義が不在のままである。
(ここでいう社会正義とは、懲戒を受けた当事者の事で、解雇された人間に課す懲罰の意味です。このご時世職を失うと復職・再職が難しい ゆえの懲戒ならば理解もできるけど、それは復職・再職を容易としえない社会に問題があり、それを放置する政府なり政治なりの問題なので一概に懲戒とはなりえないというのが小生の見解である。)

役人や公務員は国によって守られているからであろうか、不祥事に対する意識は低いと見える。が、役人や公務員に関わらず不正を行っている当事者は不正に対して、傍らで背徳行為を行っているであろう意識は必ずあり、当然不測の事態を想定しての覚悟の元で不祥事をやらかしているのならば、懲戒的な罰は当然想定しているはずだ。
それに対しての懲戒は意味があるのか考える必要がある。

最悪の事態を想定しながらも飲酒をする心理とは違うが、よっぽどの自信家か相当に利するものがあるがゆえの不祥事ならば、それを見逃す上の人間にも責任はある。


責任を考える上で大事なのは、懲戒の意味をもう一度確かめ、何が大事なのかを再考することと、単なるトカゲのしっぽ切りにならないトップのけじめのつけさせ方そのものも再考する必要がある。
その審判を仰ぐのは国に対する民であり、民間企業に対する社会全体である。


今の社会に何が不備なのかわかりそうなものだと思うがいかに。
目的と使命感
世の中にどれほど理不尽だと思うことが蔓延しているか。
紛争地域などではほとんど背中合わせだ。

事、戦争とは無縁(?)な日本においてもそれはある。
別に命まで取られるということはないだろうが、問題なのは事の大小なのではないのだ。

理不尽だと思うのは単なる主観ではあるゆえ、取り上げて掲げるような事ではないだろうが…。

理不尽だと思うケースの大多数が公的機関に関わりがあるだ。
まっ、これについては今更であろうし、これからも続々と出てくる問題ゆえ今回は華麗にスルーとするー。


夢を持たない人間にとって、唯一といえる心の支えがあるのだとするならば正義だろう。
それが自己正義か社会的正義かはわかりません。

この日本という国に社会的正義があるのかどうかは存知あげませんが、ないと想定して考えると、そうすると何が心のよりどころとなるのかについて考えねばなりませんね。

本来、公務員やら役人やらの使命は幅広い意味で国民を守る事にある。
夢を抱かずとも大志を抱けるものであり誇れるものが本来の所なのでしょうが、単に保全という意味での拠り所だとしたら問題でしょうな。

何が問題?
どこに問題?



民間に勤めている人間のほとんどが、大志や目的がはっきりしている人間がほとんどであり、基本的には法令順守であり、社会的正義を貫く事で社会的信用を得ているといっていいでしょう。ようするに誰に言われることなく出来て当たり前のことなのです。

まあ、それが出来ない企業もありますが、それ自体はあまり問題ではないでしょう。
法の抜け穴をつくというのもあるけど、最近は割りと大胆な風潮が目立つようです。


ようするに、問題視される事事態時代のニーズ(?)であり流行なのだと。
負の側面を読めば重々感づくはずであろう容易な問題だと。


悪者探しに終始する昨今の事例は単なるスケープゴートに過ぎず、責任の所在を曖昧にさせる手段でしかない。
というところに問題の根深さがあるのではないだろうかと小生は思う。

言葉悪い言い方をするならば、責任の所在はこの国を率先して引っ張っている人間、つまるところ、政府なり政治家の責任であろう事は容易に想像できる。

これらの不祥事を見るにつけ、人間のモラルに任せられるほど、この日本の民主主義の社会は完成していないということの表れだ。


小生に言わせれば今の政治は単なる茶番劇にしか過ぎないの。
仮に民主が政権を取ったところで茶番に変わりはないのだと。


「政治家はつまるところ改革者である。ゆえに改革が出来ないとは言い得て妙だ。」
「改革者の到達地点が政治家であるならば、その称号を手にすることはある意味で死を意味する。」

今の政治家様の掲げる大義名分を一度は聴いてみたいものだ。
死ぬまで政治を続けた結果何を見出し残そうというのかぜひとも知りたい。

明治維新の新政権誕生から戦争に至るまで。
戦争後からバブル期に至るまで。
バブル崩壊から現在に至るまでの間でもたらしたものは何か。

上を見続ける事以上に現状を維持するのは非常に難しい。
少なくとも世の中を見通せるならば現状ほどの痛手という問題には直面しないであろうに、
これは政権争いに終始する今の日本の惨劇とあえて言おう。


善し悪しの概念は一概には言えないが、言うなれば 天秤の如くバランス であること。
ハイリスクハイリターンであること。ローリスクローリターンであること。
そして国家ぐるみの心の拠り所である。
受験に卒業に左右される教育ってあんだぇ?
改革に対する変革:行政側と現場側との温度差

極端な話 日本語と漢字=国語 さえ出来れば、つまり読解力さえ身につけば応用はいくらでも利くということ。
それ以外 学ぶ・学ばないは本人の意思次第と。
(補足するならば算数とローマ字ぐらいは必要か。)


ところで、必修科目の履修漏れ問題だが、該当する学生にとっては真に不本意な事態のようで…。
こういう問題事態、行政側のなあなあ体質というのか、懸念されたであろう材料を長年放置する体質ゆえの問題から起きる ある意味必然とでもいうのだろうか。
ネットワーク社会において、あまりにもお粗末な展開とも取れるあたりも行政的といえる。

現場と行政側との空気の隔たりという言い訳をいってしまうとあっさり片付いてしまうが、現場における変革と行政側の改革の歪がもたらすもの…、何をおいても教育とは何かという理念のなさが招いたものだとするのならばなんとも嘆かわしい。

そもそも教育って何?
おいしいの?
的な発想しか生み出せていないような現状に悲壮感すら漂う。

教育を受ける立場の人間なんて教育課程において教育の重要性を知ることなど なかなか出来るはずもない。
結果論的には、「ああ、もっときちんと学んでおくべきだった」と悔やむ事はままあるが、
それとて今の社会がもたらした弊害ゆえと考えるならば悲壮的に考えるのは早計である。


社会に出る=自立・突き放し を意味する。
ある意味で 教育とは社会に出てから学び得るもので、生きる術・糧を探求し得るもの。

単に学歴のみを重要視するような教育は教育とは必ずしもなりえない。
今回の事例はそういう側面を浮き彫りにしているかもしれない。
履修の有無にこだわり続けるのは単に統制をはかるという意味でしかならず、お偉方の思惑しか反映されていない。(この部分が現場との温度差であろう)


日本の教育に理念があるのかどうか知らないが、その教育のもたらすものが結果としてフリーターやニートなりの姿だとしたらどこに問題があるのかを検証しなおすべきであろう。
もっとも利権的な意味での行政主体では未来永劫進まない。



ところで、21世紀に入ってから今日までに起きた不祥事の数々。
2003~2006
雪印から始まり、耐震偽装・金融機関の不祥事など民間不祥事。
2006 特に今年は多い役人様の不祥事その他談合などなど。

なにが問題でなにが問題ではないのかそろそろ見極めがついてもよさそうであるが。


いじめ件数0とする文部科学省の件と今回の件は奇しくも同じ構図と見て取れる。
おっと、文部科学省だからという理由は却下。

世の中にニーズというのがあり、それに即して改革するのが行政・政治の責任であると同時に、一定の文明や文化を残すことも責任ではあるがそれは単にきっかけに過ぎず、それを育むのは行政ではなくそこに住む人間であること。
必要か必要でないのか 時には取捨選択を迫られることもあり、両方もなんていう欲は持たないほうがいいのである。結局中途半端な教養のせいで迷惑をこうむるのは該当する当事者である。

あくまで権力を維持したい文部科学省と変革への展望に期する現場。
その間に挟まれる学生。

構図としては三者すくみだが…。

教育は命令でも義務でもなく自らが欲するものである などと言うと学者肌をさらしているようで恐縮だが、可能な限りは主体性をもっての教育であってほしいと切に願うし、それが活きる社会であってほしいとも。

この世には人生のお手本や教科書に事欠かないという事を知っている人はほとんどいない。
かくゆう小生も‘知らない’ということを ‘活字’という教科書を通して知ること毎日。


今回の件も文部科学省による犠牲といえる。
教育を知るなら権力の壁を超えた先にあるものだとおもう。
(義務教育は必要だけどね)


プロフィール

界援隊:SINNI(シンイ)

Author:界援隊:SINNI(シンイ)
勝ちと負けの関係と 上から見下(オロ・クダ)す視点と 下から見上げる視点は似ていると思う。
二者間から良い関係など生まれようはずもなく、それを擬似的にごまかす風潮があるのが今の日本の特徴と言える。
合理に則して3すくみ+α程度の関係が望ましいと思う今日この頃。

この考えも∞にある答えのひとつであり、答えにもならない答えであること。

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