天と無智
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けじめ・責任・模範の取り方と風潮
首相 TM けじめ

首相 TM いじめ
こっちは関係ありません。


いまさら感はありますが、いわゆるヤラセに対する責任のけじめをつけたと一政治家は言います。

話は変わりますが、NHK職員のたびたびの不祥事についてどう思われますか?
先日も大麻所持かなんかで逮捕者が出ましたっけ。
そのたんびにNHK改革に水を差す騒動になったりしていますが、それとこれは別ではないかというのが正直な印象です。最近は。

以前は、一くくりに「またNHKか!」って考えていましたが、いわゆるモラルや規範や道徳意識などのごく当たり前の範囲内で良し悪しの配分を自らの判断で考慮する事にこそ意味も意義もあると思います。

これまでのNHKの不祥事の一覧から、パッと見た感じにおいて ほとんどが資金の着服と見受けています。
この事から考えて組織ぐるみであったり、トップの指示によるものとは言えず、一個人の人間によって行われているケースだと思います。

結果的には不正を見抜けなかった組織の責任であることから、NHK不信を招いているのも事実ではありますが、とは言え やはり個人の判断や道徳意識から来る問題だと思います。

企業は学校ではありません。
ゆえに道徳心やモラルなんていうのをいちいち指導するというのは基本的にはナンセンスです。
どんなに教育がすばらしくて完璧な道徳心やモラルを身につけられたとしても、誘惑には勝てないのもまた人間であります。
ゆえに不正に対するたしかなチェック機能と合理性を兼ね備えたシステムの構築が企業(政界)には求められます。

ただ、一企業で取り組んだとしてもそれには限界があるのもまた事実です。
不正に対する牽制的な意味での風潮を作るというのも効果としてはありますが、それには不正に対するうまみ(?)の除去が必要であります。

身もふたもない言い方をすると、モラルや道徳では食えません。
不正では食えます。となるとリスクをとっても不正を選びます。

世の中のほとんどの事例はこれに当てはまるでしょうね。

特に権力者が今の地位にしがみ付いて「これからも政治生命を全うわなにをするyふじこ」を主張する姿はやはり、多少(?)のリスクをとっても大きなリターンにあやかりたい構図が丸見えです。

政治生命を主張する。
政治にクリーンに、県民・国民に幸せにというキャッチフレーズは良く耳にするが、具体性についてはいつも中身がない。
「我々の改革は改革を実行することで改革が改革されるのです。」
「そうすることで日本が美しくなりますのです。」みたいな。

得てしてどこの党も政治家も似たり寄ったりな答弁で緊張感のかけらも情熱のかけらもないのは事実。
にも関わらず、同じ権力者が当選・君臨し続けるのは、国民が馬鹿だからと揶揄されますが、これは否定できない事実ではありますが、実際のところはそのぬかるみこそ信条といわんばかりに放置し続ける政治にこそ責任があるといえなくもありません。

カリスマ政治家(屋)「改革を改革する事はすなわち改革が改革だから改革なのです」
って言うと、カリスマだけあって票が集まる。

カリスマはないけど政治家「今現在、さまざまな問題が噴出しています。私はこれらに対して一つずつではなく総じて解決していきたいと思います。具体的にはXXXを失くしてYYYを設立します。その理由は・・・・です。そうすることで、ZZZを肩代わりする必要もなくなり、また不正に対する一定の歯止めとしての期待も得られると思っています。ですから・・・(続く)」
というような、長ったらしくはありますが、キチンと説明されると充分吟味できる余地が与えられ、場合によっては助言したりと合理的です。

短く分かりやすいキャッチフレーズこそ、中身は分かりにくいということです。
中身というのは真相心理の果てまでということです。



今回のお題目からまったく違う話に進んでしまいましたが、決してそういうわけでもなく、選んだら選んだだけでなく、責任や民意を問う術というのも国民側からの意思というものが介在する上でないと責任とは言えないのです。

つまり、一方的な責任やけじめはそれに該当しないということです。

つまり、今回の首相閣僚のけじめのつけ方はたんなるけじめの押し付けではないかと。

民意をお考えならば本来、解散総選挙 と言いたいところだが、これとて合理的とはお世辞にもいえない。


けじめの正しい取り方って、けじめの内容をあらかじめ告げておいて意を問うべきでは。
妥当な判断か否かと。
こういうやり方は一般の企業ならばそれでもいい。
だが、政治においてはそれは政策の遅れにつながるのでかならずしも良い方法ではないし、中長期的に見た場合においてはほとんど意味をなさないからだ。

そこで合理的な運用と考えた場合、政権政策の評価・政権下で起きたすべての事象を来るべき選挙のときに投票という(お金)でもって最終判断と下せば良いと思うのだが。
そのためには今の利権特権というものを全部入れ替える事が必要にもなるけど。



利権政党の中枢に位置する人間が、けじめを取るため給料減額しますって決意は「あちゃ~、今日の牛丼代500円ドブに落っことしちゃった。もういや~ん。」ぐらいでは?

メール問題といい、やらせ問題といい、いちいち何かにつけてどうでもいいそれに審議が集中するような体たらくぶりははっきりいって時間の無駄でしかない。
もっともそれが政界全体の思惑とするなら、それもアリなんだろうが。

責任や原因をはっきりさせることは必要だが、そんなことにいちいち噛み付く野党も野党だと思う。
問題が噴出したらしたで、何かしら答弁や言い分は出てくるだろうし、何も言わなければ疑うだけの問題なんだからほっとけばいい。
そういうのを含めて選挙という形で票じればいいだけである。

ただし、票だけを投じるという愚公はそろそろお終いにしたいけど。
政治家が忌み嫌う(ほんとは大好物)お金という具体的なモノを選挙にチラつかせればやる気もかわりそうなもんだが。
分かりやすく言えば一票いくらとか。

実際は、就任当事の当選した時の得票数÷全体の投票数×((全体の投票率÷100)+1)=
(民意を問うた時の得票数÷全体の投票数×((全体の投票率÷100)+1))+就任当事の当選金利*一千万もしくは一億とか10億とか。


得票数が2500票
投票数が5000票
投票率が90%
の場合、0.5×1.9=0.95

得票数が3000票
投票数が5000票
投票率95%
の場合、0.6*1.95=1.17

3分クッキング。
すっげー適当。
あと、政策や中身によっては前後するようなものもあるだろうと。
そういう部分にこそ、政治家の本心は見えてくる。
まあ、こういう土台が出来上がってなおかつ、組織票というのを原則禁止にしてしまえば政治という中身は大きく変わるだろうけど、そうすると諸々の問題も出てくるだろうか。
そういう部分の中身については今思考錯誤といった所だろうか。

少なくとも投じる側にもそれなりの気持ちはこめる必要がある。
面白半分や結果の分かる選挙を行くほど虚しいものはない。

どちらにしろ、政治というのは政治の内部にいる内は見えてこないという問題もないとはいえない。そういう意味で「改革」という文字は実に空空しく聞こえる。


今回のやらせ問題は過去にさかのぼるゆえに、今の閣僚が責任を負うのは単なる逃げ仕込みに見える。
というのは、教育基本法の改悪によって…改正によってなんら解決に結びつかなかった時に今の風潮を踏襲した場合において、その責任は末代・未来に押し付ける事こそ信条といわんばかりの…。

ようするに、やらせもいじめも含めて 先に謝って置くから後は知らんと。


今の閣僚が責任を取る格好も美しくも潔いとも思えないのは、国会の答弁ややり取りに対するある種の申し訳ないなぁという後悔の念から来るものという風に見えなくもない。
とは言え、誰に対して申し訳ないかっていうと、実は自分自身が発した不誠実な言葉に対する申し訳なさを強く感じる。


ここ最近で潔しと思ったのが未納時の福田氏かなー。ぐらい。
つっても3年ほど前か。


まあ、なんつーかね。
美しいの対極とはまさにこのことを言うのだろうか?
それが今の風潮なんだろう。
こういうところが意識の差ってやつか。
やれやれだぜ。
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ゲーム機の行く末と政治の行く末
家庭と業務用とで歴然たる性能差を誇っていた80年代、90年代は、家庭用に望むものは業務用に劣らない高性能。

いつしか業務用と肩を並べるまでに成長した家庭用は、高画質・高音質・極限までの高性能を追求するようになったと。

次世代機の登場でほぼそれらの追求を満たすまでにはなったとは思うが、そこまでに達する過程においてほぼこれらの条件は満たされるだけの性能は勝ち得ていたように思う。

新ハードが出るたびに思える驚きが今回に限ってはないのが最初の印象です。
プレイステーション3の路線は王道なまでに、これまでの路線(高画質・高音質・スーパーなイメージ)を踏襲しています。

プレイステーション2が出た当時は、初代PSとの性能の違いを感じる事もはっきりあったし、何よりもDVDという媒体が功を奏した利点があった。

PS3は見切り発車というか、先行イメージがかなり強くPCエンジンに近いイメージを受ける。

出たばかりということもあって、割高なイメージはあるが、決して高いともいえないが、こう うならせるほどのインパクトは感じない。
それは、やっぱり現行ハードのPS2で充分だという印象があるからだろうか。
つまり、PS3の性能を活かしたソフトウェアの不在が上がるが、それとて今後解消されるだろう。という見方は出来る。

今後、仮にそれに見合うソフトウェアが出たとして飛びつくかと申しますとかなり分かりませんです。
性能的に他ハードへの移植の可否という風に考えた場合に、はたして移植は無理なのかという点がある。
多少なりとも質を落としても充分再現できうるならば、なにもそのハードにこだわる必要はない。
そのハードにしか出来ない何かがなければ、その意味合いも意義も薄れるのではなかろうか。

ニンテンドーゲームキューブでしか移植できないといわれたバイオハザード4すらもあっさりではないのかもしれないが、PS2に移植されたのだ。
この両者のハードに決定的な違いはない。
これまでのコンシューマー型ハードの特徴通りの仕様である。

PS3は既存ハードの延長線上に位置する。
が、大抵の場合、クリエイターが望む事のほとんどは一世代前のつまり、PS2やGC、XBOXなどで再現が可能なのだと。思われる。
これ以上はもはや美への追求やこだわりのレベルなのかもしれない。


次世代機の登場により、常々感じていた現行機への不満は今回に限ってはほとんど感じることがない。
ソフトウェアの不在もあるが、何よりもハードに対して魅力を感じないのだ。

この理由は、やはり更なる映像美への追求路線や音質路線に対して軽い消化不良を起こしているからかもしれない。

この基本コンセプトは今までの日本経済が追求してきたものに由来される箇所に相当している気がしてならないが、そこに一石を投じたのがニンテンドーWiiのような感じがする。

時代は少子高齢化という転換期である。
現行のコンシューマー機の性能の頭打ち。つまりは転換する時。
というコンセプトがあるように感じるWiiは童心に帰るようなワクワク感を覚える。
発表当初は終わったなーとか思っていた印象も詳細が出てくるにつれて伸びてくるなーという印象に変わったね。


それと既存の固定観念をぶち壊してくれたドラゴンクエスト9のニンテンドーDSは時代の移ろいを感じさせなくもない。

ゲームの面白さ自体は映像や音質によって決まるわけではなくて、その中身によって決まる。
さも、当たり前の事ではあるが、スペック的に満足の行かなかった時代にはやはり、その言い分は通用しないのである。
が、行き着くところまで行き着いた今となっては、こういう原点回帰する節に純粋なゲームの楽しさというのを垣間見せてくれているようでなんかよさげだ。

今回の…というか、携帯型ゲーム機事情から、すでにソニーと任天堂とではアプローチに違いがあったわけだから、今回のコンシューマ型はその携帯型を踏襲しての事だろうけど、なんとなく任天堂が明るいような気がする。

言いたいことはそういうことじゃなくて、本質的な部分で日本国内に限って言えば、ソニーはグローバル的、任天堂は日本的と。
ゲームといえば、今や日本やアメリカ・欧州だけではなく韓国なんかでもだ。(あんまり、海外勢は知らないけど)
日本の市場での開拓が縮小している傾向から、どちらかといえば、海外を意識した作品が目立っていた傾向がある。
そんな中で、任天堂系はなんか日本人を意識しているようなところがなんかいいです。



ところで、今の政治をゲーム機に例えるとPC-FXとかレーザーアクティヴとかバーチャルボインあqwせdrftgyふじk…なんでもない。
訂正してバーチャルボーイとかSG-1000(セガ)とかあとはプレイディアとか。路線こそ高性能・高機能を歌いますけどってな感じ。

決してこれらのゲーム機を悪い意味で言っているのではなくて、時代の流れに乗れなかったという意味でです。

例えば、生活保護という話
今日付けの神戸新聞から
生活保護、壁は窓口 弱者の命綱、抑制の動き?

これはつまるところ、政府調に言わせてもらうと、「景気が良いので該当者はゼロで、生活保護なんてアリエナァ~イ」とする意見書みたいな。
政府の言い分としたのならば、これは妥当といえる判断ですし、時代の流れに沿うものだといえなくもない。
ただ、視点がグローバルスタンダード(別名:足元がお留守ですよ視点)な見方か、日本的見方かによってえらい違いを感じます。

受給資格を要しながら申請が下りないというのは論外ではありますが、基準が曖昧なのも要因のひとつでしょう。
そもそもにおいて、雇用や労働の不安定化が助長しているのも一因である事からしても、真っ先に取り組むべき事は分かっていそうなものですが…。

そもそもこんなくだらないトラブルを引き起こす時点で、端から何も考えもなしにという印象がある。
何が下らない?
生活保護増加?
抑制?
行政の対応?
国の動き?

さあ、それは分からない。


政府筋が正しいとはクラミジアほどにも思っていないので、鵜呑みにすると先の時代の波に乗り切れなかったハードと結末は同じになりかねないと。

国が黙認しているといってしまえばそれまででしょうけど、どうなのかなと。
だれも好き好んで生活保護にはなりたくはないだろうと。
とどのつまり、申請するということは意思であり、その意思を汲むのではなく摘むということがどういうことなのか。
この事と65歳まで~という定義は同じ事で、役所や国が決め付けるものでは基本的にはないということだ。

ハードは出しても維持しつづける事は難しい。
特に時流に乗るタイミングは相当なものだろう。
つまり、ハード側とソフト側との意思疎通は当然のことだが、それを支える側であるユーザーの意を汲むことも大事なのである。

それが政治や行政において出来ない理由は、いわゆる縦に割ってしまうからなのだろう。
いわゆるカセットやCD・DVDは縦に割ると読めなくなってしまうので普通の人はそんなことはしないのである。
ディスクシステムのフロッピーの磁気部分を触りまくって仮面ライダーBLACKが出来なくなった話とはまた別であるが。

国と経済界との意思疎通も結構あやふやだが、一部都合の良いところでの取引はある。
が、肝心のユーザーの意はほとんど反映されない事実。

基本的にはユーザー側はゲーム機を選ぶ特権があるが、事国内経済(政治)事情に関して言えば、ユーザー側に選ぶ権利がないのである。
唯一賛成・反対の二者択一だが…大抵は強制賛成なんだろう。
似非民主主義の弊害なのかもしれないが。

こういう生活保護とかの話を含めたものは別の機会にでも。
議員特有?緊急性を要するからという言い分には一理あるが…。
議員宿舎云々に関しての記事
一見すると聞こえがいいこの答弁は正論であり議員としてはたいしたものだ。
なのに、あちこちで宿舎自体に不満や批判があるらしい。

あれ?
書いている自分もおかしな書き方をしている。


国の緊急時において、すぐ近くに宿舎を設けて迅速に収集できる環境を整えるのはすぐに理解できる、当たり前であり・朝飯前にやることだ。

豪華さや豪勢さを強調したマスコミの報道姿勢に対して一国民感情からして否定はしない。

一方でこの豪華さや豪勢さに対して、もっと質素であるべきだとか議員宿泊費を安くしろという言い分には基本的には賛同しかねる。
ただ、この超高層ビル(億ション)に対して はたして緊急時に対応が出来るのかっていう疑問がわいてくる。
直下型の地震が起きた際に、このビルが何事もなく動いてスムーズに官邸に移動できるのかって事。
高層階に陣取って、エレベーターが動かなくて階段を余儀無くされて緊急収集に遅れたなんて話にもなんねぇ。(もっとも、そんな事実はいくらでももみ消しが可能)


別にDIOではないから何でもかんでも無駄無駄無駄無駄言いたくはないが、無駄だとか高すぎる・安すぎるという不満が出てくるのは、やっぱり、そこここでおかしい節があるからだろう。

本来必要とされる議員特権とはやっぱり逸脱しているから起きる問題なのだろう。
そもそも今の議員に特権が必要なのかという問題からしてだ。

なんかのTVでもやってたが、議員成り立ててにも関わらずボーナスを受け取れる仕組みはどうか というのが出ていたような気がするが、これも広い意味で議員特権なんだなと思うね。

小生は議員よりも町というか村の中を清掃する身体障害者の清掃員の方の方が尊敬できる。
それはなんでかっていうと、現場を目にしているからだろう。

政治というのは基本的には目に見えない仕事である。
目に見えている時というのは、いわゆる次期選挙の為の議員選挙活動のときぐらいだ。
「改革、改革、とっとと(さっさと)改革♪」by布団たたき(マイク)片手改革騒音

それもたしかに仕事のひとつなのかもしれないが、必要なのは自身の具体的なビジョンなんだと思う。
いわゆるマニフェストはおれおれ詐欺と変わらない。

マニフェストつまり政権公約だが、結局今のマニフェストは事後的に決まるだけであり、結果はさほど重要視していないという点だ。
それを実現することでどうなる・どうするかという点に関してはほとんど説明されることがないし、それが結果としてどうなるのかという想像すらも働かない。
大抵実行段階である程度のお粗末な結果は見えてくるが、結果は問わず、実現したという事が時の政権下においては公約を果たしたということらしい。


年金・社会保険庁改革はそのいい例だろうか。


大半の議員のみならず政治家は自分というものを持っていない。気がする。
ほとんどが党主体・総裁主体というか、それに飲まれているというか巻かれているというか。
結果として強い党に巻かれることで権力を維持する構図は本当の意味での実力社会に反する。なりふりかまわなければ、それも広い意味では実力社会だが…。

つまるところ、議員宿舎にしろ、なんにしろ風当たりが強いように見えるのは、合理とはかけ離れすぎているからだろう。
家計簿をつけることも出来ない赤ん坊が家計を握っているのとたいして違いはない。



先ほど言った、政治家は持論を持っていないというのは、持論を展開することはつまり、異端とされる傾向にあるがゆえなのかもしれない。
党内からの核保有議論に対する風当たりを見てもそう伺える。
持論を持つことは、事政界においてはご法度なのかもしれない。

先の郵政造反からもそうだが…。


言いたいこともいえない、そういう風潮も政治の世界にはあるのかもしれない。
まあ、言わないほうがいいんだろうけど。

つまり、政治があれこれ変だとか日本が変だと言われる所以はそのせいかも。


公平性や公益性および合理性からかけ離れて見えるではなくて、かけ離れているのは民主主義とは到底いえない社会だからだろう。
そこに居座っているのが今の政治なのだから、ゆえに改革などありえるはずもないという結論が出る。

議員に不満が出れば自ずと改革が進む。
例えば議員の給料を
0.00000000000000000000000000000000000000000000005692761%削減しますとかね。
意味は良く分からんがとにかくすごい自信だ。
これが改革かどうかは分からんが、改革らしい。

障害者自立法(別名:自殺法)は改悪だが、改革だかどうかは知らんが改革らしい。

目に見えて悪い改革案でも実際に運用しないと結果は出ない。
が、分かっていて止める術がないという現行においてはやはり疑問。
端から納得した上での改革ならまだしも、急に降って沸いたような改革案ならばなおのことだ。

例:リサイクル法


ネットワーク化の進んだ今となってはありえない話である。

今の政治は秘密裏に事を運んで、自身とは都合上関係のない方向性へ導こうとしている傾向が強い。
別の言い方をすると自分達の都合の良い方向に進めるだが、これは少し否定する。
まあ、そこは経済界との蜜月ぶりを匂わせておく。

あながち否定は出来ないのが、白色絵具是ことホワイトカラーがあったり献金があったり。
個人にしわ寄せが来るが、個人と経済界との関係がない事にはならないので個人集中砲火と呼んでしまってもいいのかどうかは分からん。

広く国民と称するが、それと企業すなわち経済界との関係が等しくイーブンかといわれると答えはノーだ。
政府の個人攻撃が顕著だが、とくに今はひどく感じる。


緊急性を取り上げられると何もいえなくなるのはスーパー堤防のそれと同じ。
それを正面から見るのではなく、側面・背面から見たときにどう見えるかだ。

少しでもウマーな状況が見え隠れする以上は、手放しには歓迎できないのであります。
日本に限って言えば、権力者が善きし事に対して尊敬の念はいだけません。
出来れば権力の座にふんぞり返るぐらいの度量でいてほしいものです。
だから、だれかしらのボーナスや給料の一部返還や返上という事に疑問を感じたりします。

海外のスポーツ選手などは、割と慈善事業行っていたりしてスケールのでかさや、人としての人徳を感じてやまないのですが、日本人はあまり感じませんね。
え? それとこれとは違うって?
そんなことはないと思います。


いわゆる日本という国土を見た場合、四季がはっきりしており、季節の移ろいを感じて非常に美しいとは思いますし、人の入らない場所では水もきれいだったり今もあります。
それと日本を愛するという気持ちは別で、いわゆるこの日本という国そのものを好きになれなんていう教育は無理なんじゃないかなと。
そもそも日本の独自性なんてほとんど失われている以上、政府の姿勢は疑問だらけ。

どっちかっていうと小生は日本が嫌いだね。
公平公正から見てあまりにも美しくなく、美観を損ねる。
少なくとも小生みたいな異端が出ている以上は愛国云々は失敗なんじゃね?
愛国云々という時点で、すでに教育は後退しているし、その原因はやっぱり、アメリ米追従からという事実も要因のような気がしてなりまーせん。


まっ、別にすきにしてくれって事で…。


おわし
評価する術
よくある世論調査は判断の基準とはなりえないのは規模の小ささにある。
そんなものより株があれば判断の目安としては確実だろうに。

仮に株式会社政府という企業があった場合、株の推移はどうだろうか?

中長期的に見てもおそらくは暴落するだろうというのは目に見えている。

それと同じように各政党に対する株取引・運用が可能だとした場合、おそらく自民は伸びるし、民主は未知数。
ただ、この両者の関係は天秤と同じでどちらかが伸びればどちらかが落ちる。

政府は駄目=政党は駄目だとはならないのが、現状の問題を物語っているという意味においてはさもありき。

政党は投機ねらいであること。
政府は投資ねらいであること。

結局は株式会社指標としての政府はカスに近いと。
政党は目先の欲に駆られる意味で、将来的な展望を指す意味にないということ。
政治はともかくとして政党と呼ばれる集合体は烏合かどうかはともかくとして えてして評価しづらいものであるということだ。

ビジョンが見えないという理由もあるし、いわゆる権力の中枢につきものの甘み疑惑。
何よりも政治に対する意思表示がない・もしくは曖昧なのだ。
選挙はかならずしも意思表示とはなりえない。

汚い言葉かもしれないが、精神的な事ではなくもっと具体的な何かをぶら下げる必要があるのと、特権的な意味をすべて取り払う必要性を説く。
ようするに金なのだが。

選挙に必要なのは実は金。
投票に行くだけならタダなのだ。(選挙に掛かる費用などの税金はこの際無視)
選挙民にとって投票は会場に行くだけの浪費分だけ払えばいい。
それはたしかに意思表示ではあるが具現性にかける。

タダじゃんという感覚ほど怖いものはない。

票じた結果が吉か凶かに関係なく、当選した人間には とりあえずは特権がつくわけだが、それは諸氏のあずかりしらぬところだが、確実に金が掛かっているわけだ。
いわば、先行投資にあたるわけだが…。


当選したら当選しっぱなしというのが今のというか既存の民主主義社会の欠点ではあるが、それ自体が欠点かどうかというのはひとそれぞれだ。
特権があることで本来の職務を逸脱するケースは多々あることから考えても普通に欠点といわざるをえず、それをモラルに依存するほど人間はえらくはない。
また、わざとこういうケースを残したのは今も昔もだが、言ってみれば落ち度である。

民主主義 アメリ米方式の仕組みを取り入れた段階からすでに始まっていたことだろうし。
薩長閥に固められた新政府時からすでに、坂本竜馬が暗殺された時から決まっていたようなものなのかもしれないのもまた事実。


基本的に評価に対する対をなすのは、一対多である。

国であるところの民。

それと同様に教育現場における先生の評価を決めるのは教育委員でも教育長でも校長でもない。
選ぶことは正しくても評価の後付はそこで学びうる生徒であること。

先生の資質を育むのも生徒であること。
生徒に受け入れられない先生が淘汰するのはそれは先生の努力不足だということ。
生で教育現場を見ていない教育委員会が口を挟む問題ではないのだ。


もっとも、これを成立させるためには、子供つまりは生徒側に大人と同じだけの権限があるということは忘れずに。
学ぶ機会はいくつでもあるということ。
学ぶタイミングはかならずしも唯一無二ではない。
学ぶ・学ばないの取捨選択を選ぶという行為そのものが教育上だけではなく生きるうえで大事な意思の介在であること。

強制できるほど高みに立っていない国がどうこう決めようとしている時点ですでに破綻しているのかもしれない。


国が資質を高めようとすればするほど、逆に資質が低くなるという逆説は過言ではないのかもしれない今日20年前。

学ぶということに権力や不尽が付きまとうその精神体を拭い去るというところから物事は始まる。
100%は無理でも、極力突き詰めていけばさほど難しい事でもないのかもしれない。

常識的範囲内とリスクとリターンである。
景気の良し悪しよりは景気の善し悪しの方が実は大事
ジャンボ!(こんにちはの意)

いざなぎ超え云々で景気が良いとかなんとかアホ筋から大々的に叫ばれておられまするが、
日経平均から見て たしかに平均8000円台だった頃と比べるまでもなく良くなっておられまする。
日経平均株価は単純にリアルタイムに見る経済指標である。

これを判断材料として結果景気の良し悪しの判断とするところは間違いではないが、これだけを判断とするのならば、それは三流以下。だと思うぞ。
周りを省みない、足元がお留守ですよ状態を三流以下と呼ぶ。
学習機能がないのも三流以下という。


景気が低迷した当時(今も?)に何を見て、何があったのかを振り返る必要がある。
見るではなく観る。

何があって、何が変わって変わってないかを…。


大きいものを挙げると、
雇用の形態がはっきりと変わった・変わっていない。
変わったのは終身雇用の崩壊であったり、正社員減の派遣増。
変わっていないのは終身雇用制度そのものであること。

終身雇用の崩壊が囁かれているが、誰かが決めたという取り決めではない。
そういう傾向にあるというだけだ。
だが、現実には国側がそれを容認もしくはその傾向を踏襲したような方向性から見るにつけても暗黙の了解といえなくもない。
ただ、どっちつかずの宙ぶらりんな不安定な情勢に変わりはないということだ。



大きいものを挙げると、
いわゆるモラルの低下とやらが挙げられるが、政治家に直接的な殺人者はいないという事。
つまり余裕があるということと、リスクがないということ。御幣はあるが気にしない。

ようするにモラルなんていっていられるのも、余裕あってこそのものだといいたいわけ。
あとは自身の通念だろう。
だけど、その通念さえも余裕の前に屈してしまう事も十分にあるということだ。
それを踏まえて企業の不祥事に目をやれば、昨今の不祥事も度し難いものだとはかならずしもいえないのも事実。
というのも経営者側の視点に立てば理解のしようもある。

経営者側の立場や通念や理念を捻じ曲げる・られるような法案がまかり通るような勝手が生んだ産物であったり、またはその逆が生んだ産物であったりするケースはある。
それがいわゆる景気とはまったく無縁の人間がノウノウと能書き垂れるケースなだけに怒りも収まらないのではないかと。
合理とはほど遠い到底納得の行かない問題が多い。

意味もなく痛みを強いるケースと基本的には同じだが、意味もない理由は基本的に自分自身とはまったく無関係なベクトルに位置する改革に対してそのツケを痛みと称して強いる事にある。
いや、まったく無関係とはこの日本にいる以上はありえない話ではあるが、どちらにしろそこから見えるべきはずのビジョンがまったく見えないという観点からしておおよそ無意味なのだ。


極端な話だが、時代背景的に見て、先の郵政民営化はその時代とはとんと関係はないもの。
しようがしまいがあまり関係はない。
が、切らない理由はないという言い分に対して異論はない。
不必要なものを切るという感覚は当然である。
ただ、タイミング的にどうなのかといわれれば疑問視せざるを得ないし、また民営化の意図するところがいまだよくわからん。

到底合理に合わん(理不尽な意味)公務員仕事に対するメスを入れたという点ならば、理解できなくもないが、それとは意図するところが違う気がするが。
補足しておくと、公務員に対する見方というものに偏見はない。
情熱の云々は分からし、仕事に対する姿勢も分からんが、公務員は公務員なのだ。
不祥事云々で公務員の資質が疑われるというのにはいささか疑問を感じる。

むしろ疑うべき箇所は分かっているつもりで、その仕組みだろう。
これは公務員を例に挙げるよりも政治を例に挙げたほうがしっくりくる。
公務員は政治の仕組みを踏襲しただけのものと理解している。

まあ、いまさら挙げるまでもないことだろうが、議員はすべてに対して合理とは無縁な位置に存在していると思っている。
それ以前に今の選挙自体疑わしい。
いや、別に不正だとかそういうことを言っているのではなくて、政治や選挙が限りなく固定的なのだ。
その原因は政治離れなのだが、それを招いているのもまた政治家であり、国民でもあるが、事あるごとに国民のせいにするのはどうどうめぐりなのでこの際却下。
結局はそれを変えられるだけの権限や権力を握っている政治家たるべき仕事。

政治離れが進むということはつまり、政治は固定化される。つまり組織票。
結果同じ人間が政治をツトめるということになる。
理念のあるなしいかん以前の問題でツトむ。


リアルタイムな日本というものを見た時に、何年も政治をやっている人間にそれが務まるのかどうか甚だ疑問だ。
少なくとも政治に携わる以上何か明確な目的があって従事しているのは間違いないが、じゃあそれがいつ達成されるのかまでのビジョンは見えてこない。

政治などでベテラン議員などと呼ばれている人間を見るにつけ、何がベテランなのか不思議に思う。
この先生きのこるための知識?
もっとも数による与党のレッテルがある以上はからなずしも頭脳勝負ではなく、猿知恵が有効な場合もあるということだ。
そういうのをいわゆる遊び心と称しているが、コレ自体は決して無駄なことではなく必要経費である。

だから新庄某政界入り疑惑も本来ならば悪いことではない。
が、今の政治がパレード色が強すぎるので、この場合においては限りではないのだ。


選ぶ側が国民ならば、引き摺り下ろすのも国民であってこそ。
ついでいうならば、評価を下すのも国民であってこそ民主主義な気がする。

国会議員の給料が固定的なのも解せない。
国を引っ張る人間なんだからもっと多くてもいい気がするが…。
無論、それを決めるのも国民なんだがね。
政党助成金なるものも理解できん。
制限なしに掛かった分を後日正当分請求できる仕組みがあれば問題ないではないか。
企業献金もわけわからん。


俺にはひどく出来の悪いバグだらけの格闘ゲームにしか見えない今のジャポーン。

関係なくはないが、景気の悪いところからいろんな不合理が見えてくる。
そういう部分を解消しない状態で景気の善し悪しはおろか良し悪しは判断できない。
10年前ならそれでも良かろうが、今はそれではだめで同じ過ちを残すだけでしかない。
不祥事・モラル云々のモデルケースはこれからも多々出てくるだろうし、犯罪低下も少子化じたいも解決には至らんだろうな。

以下略
すべてを先取りした近未来的かつ斬新な いかにもなサービス(?)
近未来的だとか、ちょっと他社を先取り(投資)して利権を確保しときましょーという謳い文句は特にめずらしいことではない。
というのは、どちらかといえばありふれた光景だから。
IT先駆けの10年以上前からあったようなもんだ。
ただ、投資に対する意味合いや意識は今と10年前では相当に違いがある。

近未来とは言っても基本的には現行を踏襲した上で先を見据えるという点に変わりはないのは世の常。
ようするに現行を充分に踏まえた上での判断となるのははずせないということ。

どういうことかって言うと、日本人的な感覚からいうと常識的範囲内に留めた上での判断を要すということ。
非常識的範疇(ハンチュウ)は該せず、物事を法内に当てはめて判断してしまうところ。

近未来とは言っても、法律の範囲を超えての近未来はありえないのは、法や国によって阻まれるからであろう。

今、世間をにぎわしている近未来某は一筋の光明としての道は名を残すことはないが、悪名としての高名としては名を残すという点では一役買っている。
もっともコレ自体悪名とは言い切れないが。

近未来という名前がどういう意図でそう銘銘されたのかという点に着目すると、二通りの考え方が伺える。
ひとつは名前が指す通りのベンチャービジネス的意味合い。
ライブドア・村上ファンド・ソフトバンクetc。
華やかさをアピールした社名だと。

もう一方が、今の時代を象徴したというか具現化しただけの社名。
う~ん。つまりはだね。
あざとい・欺き・悪(必要悪)のスリーA。


金を流す(動)という観点から、法律での規制はない。
ようするに手段は問わないということ。
御幣はあるが、現状認識としてはこんなもんだろう。


どういう方法であれ、眠っている金(虎の子の一杯ならなおのこと)を市場に流す(還元)ということにデメリットはない。
それがつまり投資ブームという奴である。
(だけど、近未来某の関係者がこの集めたお金を貯金に回していたら?(;´Д`)メモアテラレマセーン)
つまり投資というのは自己判断が極めて重要な要素であり、今回の事件は単に投資者・出資者が見極めきれなかったゆえに起きただけの問題である。
これが詐欺だとしたとしても、所詮はその詐欺を見抜く目がなかっただけであること。
(とはいえ、企業の実態とはえてして見えにくいものである。
つまりは限りなくダークともいえそう。
小売店や販売店ならともかくだが、そうではないところは特に内部事情が見えにくい。
というのも今の社会の陰部といえなくもない。
クリーン性を訴えるには企業側だけのモラルに頼りきるには心配なのだ。別な言い方をすると人間だからできないのも無理はない。
組織の人間になるということはつまり極端に言えば個の価値観は捨てるということ。
ただでさえ、教育課程においてもないものをさらに捨てる価値観というものが、この先どうなるかってことを考えねばなるまい。
仮に教育課程に個人の意思の尊重があったとしても社会に出てそれを捨てざる得ない環境しかない場合、何のための教育かってことと、社会と教育とのギャップがさらに拡張工事されてウボォァ~なことになりうるだろうと。ようするにクソの肥やしにもなりゃしない。)



近未来某は、そういう意味では非常にうまい商才があるのかもしれない。詐欺という商才が。

だけど、詐欺というブランドそのものは決して珍しくもないのが昨今の日本から見てもわかりうるだろう。
近未来某もそのひとつにすぎないのだ。
そう、今の風習に御多聞にもれず習っただけの事なので驚きを感じないのだろう。


そこで非難されてしかるべきなのが、国や政治。結局はここにたどりつく。
政治にしたって復党云々で毎日のようにへたくそな人情ドラマを繰り広げておるがね。
基をたどるとこういうくだらないやり取りの積み重ねが今の日本なんだとつくづく覚醒してきている今日この頃。


耐震偽装から今日までにおいてもそうだが、企業側を取り締まれるような仕組みがない。
ついでいうと、政治や国を取り締まれる仕組みがない。
という土台がすっぽ抜けたような民主主義社会(?)はどうだかね。

ひとつ付け加えると、企業側を取り締まるのは国や厚労省のすべき事とは基本的には違う。
すべてを統括する立場にはあるが、国の締め付けは逆効果だと。

企業側を取り締まるのは基本的にはそこに従事する従業員であったりするわけで、すが、土台法整備が追いついていないというのが現状。

これと同じことが今の政治にも言えるわけだが、選んだら選びっぱなしという今の選挙自体もそろそろ見直すべき時だろうといえるのが、いわゆる不祥事の数々だ。

悪い慣例が明るみに出るのは悪いことではない。
むしろそれは今の法から考えても必然である。


監督省庁の監督不行き届きといってしまえるだけ行けばすご~い事だが、たぶん、企業側のモラル云々の責任にして一件落着という風に済ませそうなあたりは耐震偽装のそれと同じ結末で終わりかねない自体。

そういうことをとどのつまり、「見てみぬふりをする」という事なのだろう。
それが今の政治なのだろう。

別段取り上げる記事でもなかったようだ。


プロフィール

界援隊:SINNI(シンイ)

Author:界援隊:SINNI(シンイ)
勝ちと負けの関係と 上から見下(オロ・クダ)す視点と 下から見上げる視点は似ていると思う。
二者間から良い関係など生まれようはずもなく、それを擬似的にごまかす風潮があるのが今の日本の特徴と言える。
合理に則して3すくみ+α程度の関係が望ましいと思う今日この頃。

この考えも∞にある答えのひとつであり、答えにもならない答えであること。

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