天と無智
09 | 2017/10 | 11
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

MEXTUSATU 滅殺と書いて殺を滅す。
いじめ自殺も普通の自殺も変わりない。
滅殺なくしてありえぬ。
自殺の内わけはあれど、自して殺する事に違いはない。

年間自殺者3万越えの現実からすれば、いじめの自殺自体は驚くに足らんものだ。
それよりも一日平均100人以上が自殺してまっせの方がびっくり仰天するのではないだろうか。
もっとも、この事実そのもの驚くに値はしない。
というか、事実は事実として覆らない結果なのだ。

ようするにこれ以上議論のしようがないということだ。
「ああ、こりゃ大変だ。防止策をかんがえなくちゃいけないな。」という結論に達するわけだが、この時点ですでに死に体同然と違いはない。
ようするに結論そのものがすでに現在進行結論型であり、それ自体が解決策であるのが現状。

自分で書いていてよく分からないが、問題そのものを根底から見ないで、問題を問題として表面的にしか捉えられないような体裁を前提として議論していては、なんら解決策とは結びつかないゆえに、死に体議論同然だと。


圧倒的多数の3万人自殺の背景には、社会の陰湿ないじめがある。
学校ですぐに発覚するような背景とはまた違い、見てみぬふりを決め込んでいるなあなあ体質がある。

とはいえ、基本的には学校いじめも社会いじめも総じて違いはない。
が、学校と社会で大きな違いがある。


学校側は、国の監視下にあるいじめだとあること。
社会側は、国の管轄外(正しくない表現ではある)にあるいじめであること。
正しく言えば、国の監督不行き届きの末にあるいじめであること。



日本に社会的ルールというのがある場合を前提にした場合において、社会的ルールに基づいて運営していくために特に重要視するべきなのは、学校教育現場なのか社会現場なのかどちらか。
学校側には社会的ルールの概念は基本的にはいらない。
学校側に必要なのは単なるルールだ。
つまり基本だ。
個々に程度の差はあれど、基本的ルールに則して根付かせるというだけのもの。
常軌を逸すれば、軌道修正の手を差し伸べる。
つまり、道徳。
個を封じるのはその道に反する。

また、個に選択を与えるが、必要以上の選択は個の意を封じることになり、またその道に反する。


社会的ルールはその道すがら、教育現場で学ぶのが良いのか、社会に出てから学ぶのが良いのか意見は分かれるが、小生は後者。

ただし、教育現場と社会とのギャップを埋めるための仕組みに関しては、社会的ルールのステップのための道は説く必要がある。
(賃金を得るという行為と働くという意義と目に見えない体現(体験)して実感すること)
世にある日本の体験学習は、これを伴わない単なる戯れに等しきもの。
足りないものは現場特有の心地よい緊張感だ。
ゆえに体現としてたり得ないゆえに、体験学習なるものは意義が薄い。

今はインターネットがあるから、擬似的に現場の雰囲気を知る術がないというわけではない。というか造れる技術は有しているはずではある。

学校取り持ちの校外学習もいいが、ゴマンとある職種の極一部しか体験できないようでは意味もうすっぺらだ。
これに関しては学校側の責任というわけでもない。

これまでの日本の体制からして、この校外学習の持つ意味や意義は、ベストならずともベターな所まではあったと記憶する。
少なくともやって損をするということはならないから。

ただ、それを社会にどう反映して活かすかというところまで持ち込むと疑問視せざる得ない状況といえよう。
実態の伴わない薄っぺらな教育の果てが、ギャップを生み出す要因となりうる。
それは現実として職業観の見識違いや不一致としても見られる症候だ。

国がいくら世の中の偽装に目を瞑って、また自らが装ったとしても ネットに国境はないとしたならば、現実の悪いところから学ぶものはいくらでもある。

良いところから学ぶことよりも、悪いことから学べることのほうが遥かに多い現実は、どんなポジティブシンキングな人間でもネガティブになる。
もっともそのネガティブゲインを動力としている人間もいる。
いわゆる火事場のクソ力でんがなまんがな。


発想として逆だが、それはひねくれているのか、それがいまや普通なのかは人の知る所ではない。


いじめという問題を解消させるには、学校ベースというよりは文科省ベースで考えていては解決しないだろう。
理由は強いてあげれば文科省だから。
というのは、いじめが深刻化しているそうだから。
というのは、自殺が一向に減りそうもないというところから。


仮にいじめのない教育現場が出来上がったとしましょうや。(1億万%無理ですけど。)
無事教育課程を修了したとしましょうや。
社会に出たはいーけど、えてしてギャップはつき物でしょうや。

たぶん、いじめのない教育現場というぐらいから察するに国の発想から算段すると、すっごくマイルドクリーミーで甘さたっぷりケレンミなブベラ~ンな教育現場か、もしくはすっごくスパイシーでケレンミたっぷりゼロトレランス(自殺を申告した場合はカウントに入れるが、申告がない場合はカウントに入れない自殺対策案)な教育現場か。
(さらに付け足すと、申告は自殺前にあらかじめ受理された場合にのみ受け付ける(?))

という場合から想定して、基本的な社会ギャップが埋まらないまま、社会に放り出されるとすると、どうなるか?

終身雇用が崩壊したとかしてないとか、今の社会ベースには合わないとか旧日本的な制度としては合う制度だったとかいわれているが、つまり、未だにそういった部分も含めて雇用に関する新しい仕組みの構築は進んでいないという原状を踏まえると、
学校によるいじめ自殺はなくなったけど、反動で社会に出てからの自殺者数は大幅増ないし、横ばいを推移するという可能性が多いにありすぎるということ。

人口減に対する横ばい推移とするといかに危険かは理解できるだろう。


物事に解決を図るならば、物事そのものに目をやりがちになるが、本来はその根底を見据えなければならないもの。
教育と社会という二段構造の日本においては、特に個別に考えがちになりやすい。

教育はなんのためにあるのかという考え。

教育の上に社会が成り立つという考えは正しい。
が、社会の上に教育があるというのもまた事実。


片一方に問題があるのならば、もう片一方は軌道修正しなければならない。
それが必然、いや、自然となりうるような仕組みであれば問題はない。

が、今みたいに、片一方の問題にばかり目が行くと、かならずといっていいほどの大どんでん返しが来る。
まっ、国の中枢部その時々で変わりもするので、ツケを支払うのは後々釜の人間である。
ご都合主義・日和見主義なんでも言い方はある。
スポンサーサイト

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://aranoyascobra.blog33.fc2.com/tb.php/61-faf751d0
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

界援隊:SINNI(シンイ)

Author:界援隊:SINNI(シンイ)
勝ちと負けの関係と 上から見下(オロ・クダ)す視点と 下から見上げる視点は似ていると思う。
二者間から良い関係など生まれようはずもなく、それを擬似的にごまかす風潮があるのが今の日本の特徴と言える。
合理に則して3すくみ+α程度の関係が望ましいと思う今日この頃。

この考えも∞にある答えのひとつであり、答えにもならない答えであること。

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。